儒学のすすめ
論語 現代語訳大全

03-25 『芸術の完成と道徳性の関係』

現代語訳

お師匠様が、しゅんが作曲した楽曲のしょう」を評されました。「美しさは十分ですね、さらに善さも十分ですね。」

お師匠様が、武王ぶおうが作曲した楽曲の」を評されました。「美しさは十分ですね、まだ善さは十分ではありません。」
補注
  • 通説では「しゅんの時代は皇帝の位を譲られたので、楽曲も平和的で道徳的に素晴らしい。武王ぶおうの時代は皇帝の位を武力で奪い取ったので、楽曲も平和的でないため道徳的な善さはいまひとつ。」という解釈がされます。

現代への応用(☑表示)

現代社会では、見た目の良さや印象の強さ、あるいは成果の華やかさが重視されることが多くあります。しかし、それらがどれほど優れていても、その背景にある考え方や行動が適切でなければ、長く評価され続けることは難しくなるものではないでしょうか。

例えば、魅力的な商品や優れた成果であっても、それが不誠実な手段によって生み出されたものであれば、いずれ信頼を失ってしまいます。一方で、外面的な完成度だけでなく、その過程や目的においても正しさが保たれているものは、時間が経っても価値を保ち続けるものではないでしょうか。

孔子がここで示しているのは、単なる美しさだけでは不十分であり、そこに善さ、すなわち道徳的な正しさが伴ってこそ、本当に完成されたものになるという視点です。

現代においても、結果の見栄えや表面的な評価だけにとらわれるのではなく、その中身や在り方が正しいかどうかを見極めることが重要だと考えられます。美しさと善さの両方を備えたものを目指す姿勢が、長く信頼される価値を生み出していくと示されています。

原文・書き下し文(☑表示)

子謂韶。しょうう。
盡美矣、くせりかな、
又盡善也。またぜんくせりや。
 
謂武。う。
盡美矣、くせりかな、
未盡善也。いまぜんくさざるなり。
広告

【次へ】 03-26 『内面が伴わない行為は評価に値しない』

【前へ】 03-24 『孔子は天によって教えを広める存在と見なされた』

八佾はちいつ第三の章一覧を見る